樋口一葉ゆかりの本郷菊坂地区(上)
土曜日の朝に本郷菊坂界隈を歩いてみました。目当ては「東京の階段」(松本泰生著)で紹介されていた「一葉の路地奥の階段」。樋口一葉が少しの間住んだ東京都文京区本郷4丁目、旧町名菊坂にある小さな路地とそれにくっついている階段です。関川夏央の「二葉亭四迷の明治四十一年」を読んで以来、どうも一葉のことが気になって仕方がありません。以下は同書からの引用。
渋谷三郎は、一葉の父則義の同郷の先輩で、上京直後の則義がその庇護下に職をもとめた真下晩菘の妾腹の孫で、明治二十二年初夏、死期の迫った則義が夏子と将来結婚してくれるように頼んだ相手である。渋谷は、則義の没後樋口家が破産したことを知り、その年のうちに婚約を破棄して去ったのだが、この明治二十五年には新潟県三条区裁判所の検事に着任したばかりで、月給五十円の前途ある紳士に姿を変えていた。彼は一葉との婚約という内意を抱いて樋口家にやってきたのである。
しかし、樋口家の家長一葉は、この有利な申し出をきっぱりと拒絶した。
「身は新がたの検事として正八位に叙せられ、月俸五十円の栄職にあるなり。今この人に我依らんか、母君をはじめ妹も兄も亡き親の名まで辱かしめず、家も美事に成立つべきながら、そは一時の栄もとより富貴を願う身ならず。位階何事かあらん」(「一葉日記」明治二十五年九月一日)
夏子は一葉の歌人としての雅号。一葉の家は士族であり、父亡き後、彼女が母、妹を養う一家の長として気丈に奮闘していたそうです。渋谷三郎の結婚の申し入れを断ったのも、士族としての自恃の表れでしょう。何度も引越しを繰り返し、一時期、本郷菊坂の借家に住んでいました。この路地です。路地の雰囲気がよくわかる動画も置いておきます(すごく狭い路地なので、入っていくとどうしても闖入者という感じになってしまいますが…)。

最初に路地の左側に住み、その後、来客があると手狭になるという理由で右側のやや広い借家に移ったとのこと。写っている手押しポンプは一葉も使ったと伝えられる井戸です。
この路地、それから奥にある木造の住宅と階段とが非常に懐かしい雰囲気を漂わせています。この路地奥から階段を見上げるカットは松本泰生氏の「東京の階段」にも「一葉の路地奥の階段」として紹介されていますし、こちらのページにもこちらのページにもありますね。何かの雑誌で見た記憶もあります。定番アングルですね。
実際にこの路地を入り、奥まで入ってその階段を見、木造の家屋を見あげてみると、非常に感激します。一葉の世界が迫ってくる気がして、軽く身震いしました…。
ただ、松本氏が書くように、訪れた際にはそこで暮らしている方々への配慮を忘れずにおきたいところです。狭い路地ですから。以下は「東京の階段」(松本泰生著)からの引用。
一葉の路地は雑誌などで紹介されることが増え、訪れる人も増加している。 中略 やはり住人の身になって一定の節度は守りたい。従ってこの一葉の路地の階段は、上り下りはせずに、見て楽しむ階段である。
本郷菊坂の表通りから少し住宅街に入ると、至るところに昭和の雰囲気を色濃く残す路地があります。
また、界隈にはレトロ好きを喜ばせるコーヒー屋さん(自家焙煎珈琲庵)やかなりモダンなレストラン(COTOTOI -コトトワ)、それから昭和そのもの!という店構えの居酒屋(丸八本店)などがあります。
一葉の路地から歩いてすぐの場所に鐙坂があり、坂の途中に文京区が設置した「金田一京助・春彦旧居跡」の案内板があります。金田一京助は関川夏央・谷口ジロー著「『坊ちゃん』の時代第三部 かの蒼空に」の中で、同じ本郷菊坂地区に住んでいた石川啄木を物心両面で支援する鷹揚な人物として描かれています。
この界隈は戦争で焼けていないんですね。探すと戦前からの建物もありそうです。またこの近くでは、大正から昭和初期にかけて数多くの文人が利用した菊富士ホテルが営業していました。本郷菊坂に関連した文人たちのエピソードを拾っていくときりがありません。
樋口一葉はこの菊坂の路地に住んだのち、本郷丸山福山町(現在の文京区西片1丁目)に転居し、そこで作家としての輝かしい日々を送ることになります。
参考にしたページ:
おたまじゃくし-武蔵野文学散歩-樋口一葉
華月楼別館-古建築:日本旅-樋口一葉 本郷・菊坂界隈
朝日マリオン・コム-ストリートストーリー/本郷通り(東京・文京区)-川本三郎氏談話
写真紀行・旅おりおり-本郷菊富士ホテル跡






