サンチャゴ巡礼の帆立貝についてのメモ:「街道をゆく 南蛮のみちⅠ」司馬遼太郎著
以前読んだ司馬遼太郎「街道をゆく 南蛮のみちⅠ」に確かサンチャゴ順礼について記したくだりがあったように思い、確かめてみたところ、ありました。この本の主テーマは、日本にキリスト教を伝えたフランシスコ・ザヴィエルの生家を訪れることです。
サンチャゴ順礼路でもっとも多くの人が歩く道が、フランスのピレネー山脈ふもとからスペインに入り、計800kmを歩いてサンチャゴを目指す「フランス人の道」。ザヴィエルは1506年に「ピレネー山脈のふもとにあったナバラ王国の一城主の子として生まれ」(同書)たそうで、そのナバラ州をそのフランス人の道が通過している関係で、同地を訪れた以上、サンチャゴ巡礼に言及しないわけにはいかないという経緯があったようです。以下はそのくだり。
ふと立ちどまった家の扉の上に、帆立貝のしるしが陽刻されているのを見た。小さな鉄鋲が打たれたドアが、かたく閉ざされている。しかし帆立貝のしるしからみて、この家が巡礼宿であるにちがいないとおもった。
キリストがえらんだ十二人(十二使徒)のなかに、ヤコブ(Jacobus)がいる。この名の人が二人いる。まぎらわしさを避けるために、漁夫であったほうのヤコブを、教会のならわしとして「大ヤコブ」というそうだ。
大ヤコブは性格が激しく「雷の子」などとよばれた。紀元四四年ごろ、キリスト教徒に対する弾圧をおこなったユダヤ王ヘロデ・アギリッパー一世(在位四一~四四)のために首を刎ねられて死んだ。
ユダヤの地で死んだヤコブの遺体が、はるかにスペインの地にある。ちょっと考えられないことだが、しかし信仰上の真実は別次元のものというほかない。ともかくもヤコブの墓がスペインの「星の野原」(コンポステーラ)にある。ヤコブの遺骸がスペインに運ばれたという信仰上の真実がつくられたのは九世紀ごろらしいが、それが定着し、爆発的な信仰の対象になるのは十二世紀ごろからだという。
聖ヤコブのことを、スペイン語では、サン・ティアゴという。サン・ティアゴはスペインの守護神であり、話が横へそれるが、天草・島原で戦った日本の切支丹たしも、勝利を祈るとき、
「さんちゃご!」
と、いっせいに叫んでいたらしい。
司馬遼太郎らしいクールな書き方です。現在、その巡礼路をボカディージョを食べたりワインを飲んだりしながら、西洋人に混じって日本人も楽しく歩いているということを知ったとしたら、彼は驚くかも知れません。「街道をゆく 南蛮のみちⅠ」が週刊朝日に連載されたのは1983年1月からなので、彼はその前年の後半にこの地を訪れたのでしょう。すでに四半世紀が過ぎています。
サンチャゴ巡礼が欧州でもブームになったのはつい最近のことだという指摘をどこかで読みました。彼が同地を訪れた時代には、ごくひっそりと行われていた慣行だったのかも知れません。
彼の巡礼に関する考察が非常におもしろいので、長くなりますが引用します。(なお、このブログのシステムの都合上、段落頭の一字下げができず読みにくいですが、なにとぞご了承下さい。)
巡礼というのは、何だろう。
そのことの本質を考えるのはむずかしいが、ただ巡礼という風習を持った社会と持たなかった社会とがある。巡礼とは、僧職にあらざる者が、日常生活から離脱してはるかに聖地・霊場を訪うことである。ときには集団を組んでゆく。その風習は、中国や朝鮮にはなかった。理由は、ごく簡単に、儒教文明圏であったということにしておきたい。
巡礼は、インドにおいて古い伝統をもっている。釈迦滅後、ひとびとはその仏蹟を巡礼したし、バラモン教にもその風習がある。
日本では、平安期から室町期いっぱいまでつづいた熊野詣の流行は「蟻の熊野参り」ということばさえ生んだ。日本イエズス会が一六〇三年に刊行した「日葡辞書」にも「アリノクマノマイリホドツヅイタヨ」ということばが載せられている。伊勢神宮への御蔭参りは室町期にはじまったし、また観音信仰は西国三十三ヵ所巡礼になり、さらには弘法大師信仰は四国八十八ヵ所の遍路というかたちになっていまだにつづいている。
イスラム教におけるメッカ巡礼の重要さについては、触れるまでもない。
なるほど、なるほどという感じです。
キリスト教もまた、側面において巡礼の歴史であった。 中略
なかでも、
—聖ヤコブス(ヤコブ)の奇蹟の遺骸をおがみたい。
という欲求が、十二、三世紀以後、スペインのサンティアゴ聖堂をめざす熱狂的な巡礼の流行となった。ヨーロッパの各地を出発したかれらは、まずパリに集まった。
フランシスコ・ザヴィエルが学んだ学院は、サン・ジャック通りのそばにある。サン・ジャックとは、聖ヤコブのフランス訓みである。この通りに巡礼たちがあつまり、ピレネー街道をめざした。ザヴィエルも、この通りにおいて多くの巡礼たちを見たはずであった。
巡礼たちはフランス各地の聖地を巡拝したあと、いよいよスペインのサンティアゴ聖堂をめざすべく、このサン・ジャン・ピエ・ド・ポールの町にあつまったのである。あとは、ピレネー山脈を越える。
中世の巡礼たちは、独特の服装をしていた。当時のレリーフの写真をみると、簡素な長衣か、革の衣を着て、巡礼杖をもち、腰にひょうたんをぶらさげている。また肩から革袋をかけ、その革袋に、ヤコブの聖遺物を見ようとする巡礼は、かならず「帆立貝」の貝殻をつけていた。この貝殻こそ聖ヤコブスに対するしるしであり、とくにこのサン・ジャン・ピエ・ド・ポールの街にあつまる者は、すべてこの貝殻を身につけていた。私どもが見あげているこの古い家のドアの上の帆立貝から、ここが巡礼宿だったにちがいないと考えたのは、右の理由による。
先にご紹介した「ぶらりあるき サンティアゴ巡礼の旅」(安田知子著)においても、巡礼でゆく先々で見る帆立貝に関する言及がありました。
巡礼路には「道しるべ」がたくさんあり、巡礼者をサンティアゴまで導いてくれる。
「道しるべ」はホタテ貝のマーク、黄色い矢印(フレッチャ・アマリーリョス)、赤と白のマークがあり、巡礼路のいたるところに記されている。それは、大きな木にも、石にも、アスファルトにも、民家の壁にも。そして標識も設置されている。
ホタテ貝は巡礼のシンボルでもある。
昔の巡礼者がサンティアゴに到着した証にホタテ貝の殻を持って帰ったことが始まりだといわれているが、いろいろな説がある。他の巡礼者から聞いた話によると、ホタテ貝に刻まれた線が一つに集まる、つまりサンティアゴに向かうことを意味しているという。ちなみに、フランス語でホタテ貝のことはコキーユ・サン・ジャック。サン・ジャックとは聖ヤコブのことだ。
帆立貝の背景がだんだん明らかになってきました。安田氏の記述からは、現在では帆立貝が巡礼路の至るところにあふれている状況が読み取れます。司馬氏は「やっと見つけた」というニュアンスで書いているので、彼の執筆当時から現在に至るまでサンチャゴ巡礼のブーム化があり、それに伴って帆立貝のマークも色々なところに表示されるようになったのでしょう。いま読み進めている「スペイン巡礼史 『地の果ての聖地』を辿る」(関哲行著)にも帆立貝の背景に関する記述があるので、近々ご紹介したいと思います。
司馬遼太郎にとってのサンチャゴ巡礼とは、同書を読む限りでは、中世に起源を持つ宗教的な慣行として認識されているだけで、あくまでも歴史的な考察の対象。現在のサンチャゴ巡礼は、その気になりさえすれば、誰もが行って実際に自分の足で歩ける対象になっているわけですから、かなり位置づけが違います。事前の楽しみは、まだまだこれからです。
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